昭和41年3月5日   朝の御理解

                          末永静行(№41-026-B-2)




信心をさせて頂く者が全部、取次者としてのおかげを頂かなければならないといったようなことを申しますけれども、皆が皆、取次者、先生になるという事はもう不可能である、やはり、教師は教師、信者は信者と言うように与えられたその場、与えられた御用というものを銘々がお繰り合わせを頂いて十分にお引き回しを頂くこと以外にはない、とにかく神様のおかげを頂かなければ立ち行かんのであり、神様のおかげでお引き回しを頂かせてもらわなければならん。

昨夜、昨日、一昨日でしたか、そこに大きな木の根っこをお供え頂いておりました、それで、田主丸の田代さんがちょうどお参りし合わせられまして、お花のお供えをたくさん頂いておりましたから、あそこに二重生けのようにお花を、お花の心得があんなさいますからきれいに見事に入れてございました。けれどもそれはやはり、その、あーいう、とてつもないこの木の根っこですから、やっぱそれでは花は素晴らしいけれども、根っこが生きてなかった感じだったから、私、昨日、散歩のついでにいろいろやぶから降りてきた雑木で私があそこへ、こう、むちゃくちゃ流にその入れていった。

先日、あの熊谷さんからたくさんやぶつばきを、かんつばきをですね、のつばきです、を頂いておりましたから、それを一緒にあそこに入れてみたんです、同時にだから私は根っこそのものが生きなければならない、もう根っこそのものが花だと言う感じなんです、で、まあ、私は入れた、入れたと言うよりも、む、むちゃくちゃなんですけれどもですね、
そう言うようなことがありましてから、その花をもういたるところに私が自分の控えのほうにも、まあ、言うなら、竹の、竹をきったばっかりのような、その竹の筒に一輪を、つばきを、まあ、入れさせていただいておりますが、
そんなことだったからでしょうか、皆、帰られたた時に最後の御祈念をさせて頂く時、まあ、あれこれちょっと心にかかることをお願いをさせてもらい、また、私の五月の学院入学のことのことも、でこう感じさせていただいたんですね、

そしたら、神様からそのさっき私があの、入れさせて頂いたつばきの花を事を頂くんです。なるほど私はもう本当に何も出来ない、それは花の中にはたくさんな花が合って、もう豪華な花、美しい花がたくさんあります、けれども、まあ、私自身が丁度、その、一枝咲きの寒つばきのつばきにも似たような程度の花ではなかろうかと、
器と言うけれども、その器とても見事な何万円もするような器もありゃ、きれいな花の花瓶もありますけれども、まあ、私は、本当に竹のつつを、のような程度の者ではなかろうかと私は思う、
ね、けれども、本当に花の例えば心得のある人、特にお茶の心得でもある人はです、もう、どう言う豪華な見事な美しい花よりもです、このよつばきを一番愛するということです。しかもどう言うすばらしい花器がありましてもです、やはり、青竹をちょっとひっきって来て、あの、下げるなり、また床におくなりして一輪ののつばきにです、もう、こよない、限りない素朴な美しさをそこに発見するのです。ね。

後からご覧下さい、私はそこの中に一輪入れると、自分ながらいいなあとこう思うのです、ですから、あー言う大きな花になりますとおかしなことでございましょうけれどもです、それは、私が曲がりなりにもお茶をやりますから、お茶の雰囲気、お茶の気分で入れてる、いわば茶花なんです、
ね、私自身の器と言うものは、まあ、竹のつつのようなものであるかも知れん、花そのものもよつばきの、いわば、一枝咲きの一輪のつばきの花にも似たようなものでもあろうけれどもです、ね、それを生かす事によってです、ね、それをその花の中にある、その、でなければない美しさというものを見出してくださる人があればです、それはまた、他の花にない一つの味わいが出るように、
私共のように無学で何も出来ない、ね、本当に器に例えたら竹の筒のようなものであろう、花に例えるならばよつばきのようなものであるかも知れんけれども、お茶の心得なら、お茶の心得のある人がそれを発見したらです、それをもう最高の花として生け上げたり、また観賞する雰囲気をです、その小さい部屋にたどい合わせる事ができる。私のような者であってもです、もし、私のような、その、よつばきのような花でもです、それを生かせれる人、いかせれるひとにめぐり合えばおかげじゃと言う意味のことを頂いてから改めてそのことを思いました。

なるほど、例えば、会社にですね、百人の社員がおるなら、百人の社員が全部社長さんになるというわけには参りません、社長さんおってよし、普通の社員がおってよし、雇使いさん、給仕さんがおらなければなりませんけれども、給仕は給仕なりにです、なら、幸せになれないかと言うとなれるのです、社長さんになったからと言うて必ず、いわば、幸せとは限らないのです、
問題はそれを生かす事だ、そう言うお繰り合わせを頂く事だと、椛目に大坪総一郎と言う人がある、その大坪総一郎と言う人をです、本当に生かせれる人為に私がめぐり合った時、ね、その、花は十全に、十分に生かしあげられる事ができるのであり、ね、幸せを感じる事ができるのであり、
ね、必ずしも頭が良うなからなければ幸せにならん、必ずしも大学をでなければ、必ず高校を出らなければという事は絶対にないということ、ね、問題は神様のお繰り合わせを頂いて、それを発見してもらえるお繰り合わせを頂く以外にはないのである、ね。
私共の知らない、私共が気がついていない良いものを、例えば銘々がもっておるとするならばです、その良いものを発見してそれを引き伸ばしてくださる、人にめぐり合う以外にないのである、
ね、皆が例えば総理大臣を願ったり、ね、社長さんを願ったりしてできるはずがないのである、ね、それぞれにもっておる味わいというものをです、自分にも気がつかないその味わいそのものをです、つばきの花自身も分からない、こう言う美しさがあったとは気がつかないでしょうけれどもです、ね、お茶ならお茶の心得のある人がその一枝のつばきをです、もう、どう言う素晴らしい花よりもです、それを目で愛するように、

ね、どう言う小さいつまらない器であってもです、それは竹の筒のようなものであってもです、もう、それとこれを合わせた時にです、もう他の花では、器では味わえない美しさというものをです、十分に発揮する事ができるような、そう言うお繰り合わせを頂けばよいということである。そう言う人為にめぐり合わせなければならないということである、ね、以下に、お繰り合わせを頂かなければ人間の幸せはないかという事が分かるでしょうが。

それに、自分からです、ね、社長さんになりたい、社長さんになりたいと言うてもです、社長さんに、言うなら、全部が全部社長になってからと言うて、また出来えない事である。なら、社長さんになったかと言うて幸せという事はないのである、その人の力であり、器量であり、ね、もっておる良いものをです、本当に発見してくださる人、それを十分に生かしてくださる人にめぐり合わせて頂くことを願う以外にはないのである、ね。

私は何をしたら幸せになるのやら、もう、私は以前に思うておった、もう小さいこんな自分から商売を志、商売人を志させて頂いて、もう、本当に商売の名人にはなりたいと思うてそのことに一生懸命精進した、もう、私から商売を抜いたら何もないと自分でも思うておった、
ところが、神様の目は違っておった、ね、もう、それこそ、夢にも思わなかったこう言うよう結果になりつつあるのである、神様の目からごらんになればです、私はやっぱり取次者としての御用につこうて下さったが、神様も喜んでくだされば氏子も喜んで頂けれると言うようなおかげが頂けた。私がいかに商売によって億万長者になったところで、神様はさほどにお喜びにならなかったであろう、また、私自身も幸せになれたとは思えない、ね
、神様が発見してくださった。
例えば私が今度、学院に例えば参りますでもです、ね、私の信心の、いうなら、素晴らしさと言うものはないけれどもです、そのやぶつばきを愛する人、ね、竹の筒を愛する人、その味わいの分かる人、それを生けこなせれるひと、そう言う人にめぐり合わせて頂くということになったらそのつばきの花も、もう、他の花では真似の出来ない味わいを発揮する事ができれる場をです、お繰り合わせを頂いて行けばよいのだという事を昨夜、遅うそのことを頂きましてから、はぁーそうどころじゃないなぁと私は思うておるのです。

みなさんでもそうです、こうならなければと思うておることが必ず幸せという事じゃないのです、私は、やはり、商売でおかげを頂きたいとこう思うておったけれどもです、それは、私の思いに過ぎなかった、そして、その思いが成就したと致しましても現在の幸せはとても頂けなかっただろうとこう思う。

神様が、いわば、発見してくださっと言うか、神様が白羽の矢を立ててくださったと言うか、そのためのなるほど修行はあった、けれども、私の頂いておるところの人となりというものを十分にです、神様がお使い回しを下さる事によって私が幸せと言うだけではなくて、神様も幸せをしてくださる、おかげになってくるのですからね。

どうぞ、私のもっておる、それを本当に発見してくださる、いわば、人にめぐり合うお繰り合わせ、これは人のことだけはありません、ね、私の一番、私の頂いておる力全部を発揮できれる御用なら御用にです、神様がお引き回しを頂けれる事を願う以外にはないでしょう、ね、その、お引き回しのおかげを頂かせて頂くために、神様にお使い回しを頂くことのために私共がです、つかわれよい私にならせて頂こうという事が第一条件になるのです、そうでございましょうが。ね。

神様にお使い回しを頂かなければそこんところの場にでる事が出来ない、ところがどうですか、右を向けと言うても左どんむいとる、ね、左向けと言うのに右どんむいとるようなことではです、神様がお使い回しを下さる事は出来ません、もう、あれはいう事を聞かんけん、もう、あれは使わんめという事になるかもしれません、いかに、信心にその素直さと言うのがいるかという事が尚また分かりますですね。

まあ、取次者と言えばです、それは今度、ここの北九州環内だけでも、北九州の教務所環内だけでも、今度二十三名のお道の教師志願者がございます、いわゆる、金光様の先生になりたいなりたいと手を上げておるようなもんです、ね、この二十三人の者が、ね、いかにも金光様の先生を目指してもです、言うならば、神様の御用をさせてもらう者、神様のお給仕をさせ頂くもの、そのお給仕をさせて頂くその私のお給仕役がです、ね、汚れたくっとったらでどうですしょう、汚いごみのようなものを下げとったらどうでしょう、
どうぞ、召し上げれていうた神様にですよ、ご飯のお給仕ならご飯のお給仕、お神酒ならお神酒のお給仕させて頂くのにです、神様だっていやでしょうね、汚れたくっとるとがこうやってから、お給仕に出来たもんじゃ、本当にこざっぱりときれいにしとかなければです、お給仕の役が勤まらんように、自分がいかに教師を目指させて頂いてもです、そう言うのは神様がお使い回しは下さらんと私は確信しておる、
ね、勿論見栄形のことではありません、私の心の中にです、神様に喜んで下さるような、いわば、美しい心と言うか、ね、本気でその汚れを取らせて頂こうとする精進、努力と言うか、ね、そう言う心があって初めて神様がお給仕役としての御用につこうて下さる。

いかにも見かけは立派な大徳の先生のようでありましても、人が助からないと言うような人もあります、それはです、きっと心の器量の悪い人ですよ、神様が使いなさらんとですよ、形の器量を私は申しますように、ね、器としては竹の筒のようなものかもしれません、ね、やぶで咲いておる時のつばきなの花って、大したものではないのですけれども、それを一輪、一枝おいてきて、それを生かせれる人にめぐり合った時です、ね、他の花では味わえない素朴な美しさをいわば、その人が感じて下さる、言うなら、神様が感じてくださる、そこに一に大坪二にも大坪というて神様が御用につこうて下さるようなお繰り合わせを頂いたら有り難いこと、ね。

とても信心にはだから素直さが、本当にお使い回しを頂けれる、いわば、堤さんってと私がいうたら、はいとしりがる、応えれる人をまず神様は求め給う、ね、同時に、やはりこえらしゅうなからないかんです、ね、いつもにがん虫かみつぶしたごたっとに(            )はずはない、心がいつも和やかににこやかに、ね、汚れでもさっぱりと、いうなら、落としておると言うな人を神様がお使いなさるようにまずなんと言うても磨くことに改まることに精進をしなければならないと言うようなことがです分かるでしょう、そこに、本当に生かされる、神様の十分のお使い回しの頂けれる氏子としての幸せ、その氏子としての幸せを感じる時に神様もまた、ね、本当に、いわゆる、氏子を見い出したと喜んでくださるおかげがです頂けれると私は思うんです。
                                   どうぞ。